はじめに
オースチン・セブン(オースチン・7)のツーシーターです。私が訪れた時には少し奥まった位置で展示されていたので、前方向から車両全体を見ることができませんでした。「ベビー・オースチン(Baby Austin)」とも呼ばれるように、このコンパクトさがオースチン・セブンの特徴でした。当時のT型フォードと比較すると、とても二人乗りに見えないほどコンパクトです。走るために本当に必要な装備しかないとも言われています。
当時イギリスで大衆車としての地位を固めたと言えるほど商業的に成功を収め、アメリカやドイツ、フランスでもライセンス生産が行われるほどでした。イギリス産のオースチン・セブンも日本へ輸入されおり、さらにオーストラリアや日本へシャシーだけ持ち込まれて現地生産のボディが架装されることもありました。
日本では1935年以降は日本自動車株式会社がシャシーだけをまとめて輸入し、JR中野駅前にあった自社工場で、日本の規格に合致するボディを架装していました。
戦前の日本で大ヒットしたオースチン・セヴン
戦前の日本は大型アメリカ車の寡占状態でしたが、唯一と言っても良い例外がオースチン・セブンで、自身も1932年式のオースチン・セブンを愛車にしていた自動車評論家の小林彰太郎氏によると、オースチン・セブンは当時の日本の「小型車市場を牛耳っていた」とのことです。
ジーライオンによる公式の車両説明
ジーライオンミュージアムではオースチン・セブン脇にタブレット端末が設置されており、実際の走行映像や当時の世相解説も楽しめるようになっています。タブレット端末での車両解説は次の通りです。
『1922年から1939年まで生産総計29万台と、小さな島国イギリスを埋め尽くした、戦前きってのヒット作オースティン・セヴン。
1906年に創業したヘンリー・オースティンは、手堅い中級の中型車でそこそこ成功していたが、第一次大戦による経済の疲弊に直面し、安くて買いやすい小型車の必要性を痛感した。それはあまりにも冒険的に見えたため、頭の固い重役陣の反発を受け、やむなく自費を投じて自宅で設計と開発を進めた。助手は、若手の技術者スタンレイ・エッジただ一人だった。
しかし、いざ完成してみると、間に合わせ的な仕上がりでしかなかった当時の大衆車とは比較にならないほどの本格派として、瞬く間に消費者に歓迎された。ホイールベースわずか2m以下と小さかったが、ちゃんとしたフレームに本格的なサスペンションと4輪ブレーキを備え、滑らかに回転する水冷4気筒エンジンを積む、いわば「小さな大型」だったからだ。
747ccのエンジンは当初10馬力にすぎなかったが、軽量車であるため実用上は不足を感じなかった。1933年には17馬力まで強化されたほか、1932年には3速MTが4速化されたうえシンクロメッシュも備わるなど、ますます本格派の色合いを強めた。
ボディ形式にはセダンだけでなく2シーターのオープンもあり、いろいろチューンして小排気量のレースでも活躍した。ジャガーの創業者ウィリアム・ライオンズはオースティン・セヴンに魅力たっぷりのスペシャルボディを載せるビジネスで成功への道を歩みだした。
ドイツでノックダウン製造されたディキシーは、BMWの四輪車製造への第一歩になった。日本ではダットサン(日産)やスズキなどが、オースティン・セヴンを参考資料にした。』
オースチン・セヴンの中古車をお探しの方へ
オースチンセブンはカーセンサーやグーネットなどで一定数がいつも売り出されていますので、そちらをチェックされてはいかがでしょうか。ジーライオンミュージアムもグーネットやカーセンサーで博物館級の車両を大量に販売しており要注目です。